2014年12月29日

音楽2

1960年代
キューバ革命が1959年に起こり、1961年1月にアメリカ合衆国とキューバの国交が断絶すると、ニューヨークにはキューバの楽団はほとんどいなくなり、代わりにプエルトリコ系のミュージシャンらが優勢を占めるようになった。大規模な楽団は姿を消し、ヒスパニック系の若者にはアフリカ系アメリカ人のコミュニティから生まれたR&Bやドゥーワップ、ソウルミュージックの人気が高く、従来のポピュラーなラテン音楽の人気は下火となっていた。その過程において、チャーリー・パルミエリ、ジョニー・パチェーコ、レイ・バレットなどのミュージシャンが、ソウル・ミュージックとマンボを融合させて、60年代初頭にはヒスパニック系コミュニティでブーガルーのブームが起こった。

その一方では、かつてルンバやマンボの時代に隆盛を極めたナイトクラブやホールが次々と閉店する中、ミュージシャンの間ではデスカルガ(ジャムセッション)が頻繁に行われ、ティコやアレグレといった数少ないニューヨークのラテン系レーベルの企画で録音された。一例として、1966年5月23日にヴィレッジゲイトでライブで録音された盤がある。デスカルガはプエルトリカンのアイデンティティを模索するひとつの運動となり、毎夜のように行われていた。

1964年、ジョニー・パチェーコは、法律家のジェリー・マスッチとともにファニアレコーズを創立する。ウィリー・コロン、エクトル・ラボー、ジョー・バターンなどの若手アーティストのヒットを飛ばして地盤を固め、後にティコ、アレグレを吸収する一大レーベルとなる。レーベルのアーティストのショウケースとして結成されたファニア・オール・スターズは、1968年6月8日にレッド・ガーターで第一回興行を行った。

アフリカ系アメリカ人の若者がブラックパンサー党を結成したことに触発されたニューヨリカンの若者たちがヤングローズを結成するなど、1960年代後半は若者が政治活動に強く関わった時代であった。この社会変化の中でファニア・オール・スターズは、長く親しまれてきたソンや、プエルトリコ独自の音楽であるプレーナを採り入れた曲でシングルヒットを出し続け、1971年8月26日にはナイトクラブチーターでの歴史的なコンサートを行った。その後彼らは世界中をツアーし、サルサの認知に貢献した。ファニア・オール・スターズは1973年8月24日に、ニューヨークのヤンキースタジアムで4万人の観衆を前にコンサートを行った。この時は興奮した観衆がフィールドになだれ込んできて途中で中止となる事態となった。


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Posted by saludkobe at 09:04│Comments(0)
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